社会問題

学校は小さな社会なのか・・・学校に通う理由

「何のために学校に通わないといけないの?」

これは「何のために勉強するの?」と並んで、
子どもの大きな疑問の一つであり、
大人にとっては答えに困る質問の一つではないでしょうか?

堀江貴文氏はかねがね「学校教育は洗脳である」と述べていますし、
本田圭佑氏もツイッターで学校に無理をしてまで行くことに疑問を呈したりしています。

私は学校の教員もやっているため、
教員免許を持っています。
基本的には教員を目指している人が大学時代の友人です。

ですので学校に対して肯定的な人が多いわけですが、
無理に学校に行く必要は無いという意見も聞くようになりました。
それだけ、学校という場所が絶対的な場所ではなくなってきたのかなと思います。

小中学生の不登校率が過去最多1.4%で13万人 でも85%は高校進学するって知ってた? (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

によると不登校率は過去最多で1.4%とはいえ、
90%以上は継続的に学校に通っていることになります。

やはり義務教育期間は学校に継続的に通うことが一般的ということになります。
義務教育を受けさせることは保護者の義務でもあるので、
通わせようと努力することは必然ではあります。

義務は義務として履行しなければなりませんが、
学校に行く意義(本記事内では義務教育期間を指します。)はいったい何なのでしょうか。




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学校の役割は「小さな社会」なのか

教育の重要性は先進国では強く意識され、
特定の年齢までは学校に就学させることが一般的です。

それだけ学校における教育に重きが置かれていることが分かりますが、
学校で教育を受ける意味はどこにあるのでしょうか?

①学業面から考える役割

学校の役割としてまず浮かぶのは、基本的な学習習慣の確立と、知識の習得のためだと思います。
加減乗除の計算、基本的な歴史、常用漢字など様々なことについて学習します。
これらが必要なことであるのは間違いないでしょう。

現にこの記事も平仮名、片仮名、漢字などを使って書いているわけですので。
人生において小・中学校で学んだことは意識せずとも使っているわけです。

しかし、これだけなら学習塾でも学ぶことができるとは思いませんか?
幼児教育に特化した塾もありますし、
家庭教師をしていても不登校の生徒を指導することもあります。

ほとんど学校に通うことができない生徒でも高校に進学しているケースもあります。
学校でなければ学ぶことができない時代では無いということです。

②社会性の発達という観点から考える役割

次によく言われる役割として浮かぶのが、
人間関係を築くため、築く練習のためという意見です。

学校では数多くのクラスメート、部活動の仲間、小学校での縦割り活動など、
他学年他クラス等、多数の人と接する機会が確保できます。

また、教師との関係であっても教師の中にも男女、年代など様々な教師がいます。
それらの人と関係を築くということは、
人間関係を形成する練習になるかもしれません。

しかし、この練習成功が確約されていないという点も考える必要があります。

イジメによって自宅に引きこもってしまい、
以降人間関係を形成することができなくなってしまう可能性も存在しています。

学校カウンセラーや相談室など処置を講じてくれる人たちは学校にはいます。しかし担任の教員や学年の教師が学校における人間関係の形成で、
上手くいかなくなってしまったことに対して、
どれだけ責任を取るべきなのかは難しい点です。

話が逸脱しましたが、そもそも社会に出て関係を築かなくてはいけないのは、
何十歳も年齢の離れた上司や、反対に部下も含まれます。

1つ2つ年の離れた人や教師と関係を築くのとは全く異なりますし、
そのような状況下での練習が社会に出た時に活かせるかは疑問です。

社会と決定的に違う点

学校というのは学業面、社会性の面での発達を促すことを期待して行われてます。
そのために職業体験など、学校だから多数に対して平等に同じ経験を提供することができることもあるでしょう。

しかし、社会の予行練習として不足している点が、
責任を取るということを経験させることです。

例えば、部活動であれば罰走、授業や学級活動であれば懲戒を加えることで対応しているでしょう。
一方で、いじめや対教師暴力、器物破損についてはいかがでしょうか。

これらに対して、該当生徒、保護者の謝罪、反省文などで済ませてはいないでしょうか。
昨今イジメの報告に対しては徹底するようになってきましたが、イジメは立派な犯罪です。

傷害が含まれていることも多いでしょうし、器物破損や侮辱など、様々な「犯罪行為」が関わっていることが多々あります。
むしろそれくらいしなければ、人の心は壊れないわけです。

このような罪深い行為に対して、反省しているということを言葉や文字で済ませるということは社会であり得ません。
被害届などは、いじめを受けた側の判断に委ねられることでしょうが、
学校側が「反省していることですし」相手も未来がある」などと庇っていることはないでしょうか

現在、イジメはいけないことだという教育がされていないわけがありません。
必ずイジメはいけないものだと教わるはずです。

いけないと学びながら相手の将来を壊しているわけですから。おそらく、学校が徹底した措置を行うことができないのは、イジメに対する教育を本当に徹底して行っているのか、イジメ対策を行っているのかなど、突かれると痛いことがあるからかもしれません。

しかし、学校で教える以前に、各家庭でしっかりと教育しておくべきですし、
子どものことを思うなら保護者がそうしているはずです

対教師暴力もガラスを割るなどの器物破損も犯罪行為です。
一切庇うことなく毅然とした対応を取ることが社会に出た時の予行練習になりますし、良いことと悪いことを分別する練習になります。
危険管理の専門家でもない学校が対応するから中途半端になるのですし、ちくった、ちくってないなど、二次的な災難を招くのです。
学校で判断できないことは、第三者機関に調査してもらえばいいのです。

自分がしたことの重大さを知り、許してもらうには何が必要なのかを知ることも教育ではないでしょうか。そして社会はそういうものではないですか?自らしてしまったミスは自分で責任を取らなくてはいけない。正当防衛も情状酌量もあるわけです。致し方ない理由があればそれは考慮に入れてもらえる社会が日本にはあります。社会に出るための準備期間であるなら、自分の行動には責任が伴うことを大人になる前に学ばずして、社会に出るのでは意味がありません。




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学校に行く理由はそれぞれが考えなければいけない

学習面、社会性という面では、学校が必ずしもその役割を担う唯一の手段ではないですし、学校に行けば必ず養えるものではないと思います。

社会に出るための準備期間として学校が機能するには犯罪行為になり得る行為であるイジメや対教師暴力、器物破損などには厳しく罰する必要があります。
大切なことはそこで見捨てないということです。自分のしたことをしっかり償えば戻る場所がある。それが「学校が存在する意味」の1つになると思います。失敗してもそのミスを償えば戻れる場所がある、これは社会と比べて寛容な点であると思いますし、学校はそうであるべきと思います。

小中学生のころに出会った人と結婚することもあれば、
小中学校のころの経験が仕事につながることや、
自分の人生に大きな変化をもたらすこともあるでしょう。

しかし、それらは絶対的なものではなく、嫌な思い出しかない人もいるでしょう。
不登校であっても今であればネットを介して共通の趣味の友達を見つけることや、
自ら進んで学習して大学に行くことも出来る時代です。
学校はもはや絶対的な場所ではありませんし、
社会とは全く異なる特異な場所であるのは確かです。

ここまで長々と書いてきて結局一人一人によって学校の意味合いは違うという結論では元も子もありませんが・・・。
しかし、それだけ学校に対して異なった気持ち、意味合いで通っているような人たちと接することができるということこそ、学校に通う必要性の一つになるのかなと思います。

先述した趣味の仲間や、
職場では基本的に自分と同じ方向を向いている人と関わることになりますが、
学校ではそうではありません。

全く違う趣味や、勉強、部活、行事に対する姿勢をもった人と接することは、
違和を経験するという意味では意義のある経験になるのかもしれません。

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