社会問題

パワハラへのパワハラ:私的制裁・集団攻撃の怖さ

多くのスポーツ業界でパワハラが表沙汰になっています。
特に2018年は多くのメディアで取り上げられ、
スポットライトの浴びる機会が多かった話題だと思います。
彼らはスポーツ選手であり名前の通った人である分、
社会の反応も大きくなる傾向もありそうですね。

パワハラの相談件数~厚労省データ

 

厚生労働省のデータでも実際に、
パワハラに関する相談件数は増加しています。

一方で、これだけ相談件数が多いにもかかわらず、
平成28年度の精神障害の労災補償の支援決定件数は498件です。

この中でもパワハラにあたる理由によるものは99件です。( データで見るパワハラ )




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本人がパワハラだと感じたらパワハラ

相談件数のわりに、労災認定や民事事件などに移行するケースはあまり見られないようです。
その理由として考えられる理由の1つは、
パワハラは受け取った側の感覚に依存する」ということではないでしょうか。

暴力に関してはいかなる理由があろうと許されないという風潮が高まり、
「愛のムチ」では許されなくなっています。

一方で、言葉の暴力に関しては言われた側の感覚に依ってしまうのが実情です。
同じ言葉を言われても傷つく人と平気な人がいます。
また、言われるシチュエーションというのも重要な要素になります。

加えて、相手に対して日頃からどのようなイメージを持っているのか、
対等に話せる相手なのかということも関係してきます。
そのため、字面や証言だけでパワハラの有無を判断することは非常に難しいのです。

このことは、加害者・被害者にとって難しい問題を引き起こします。
時に客観的に見ると、
「パワハラとは言えないんじゃないの?」「この程度のことで?」
などといった反応を引き起こすこともあるからです。

このように、見聞だけでは実際に何が起こっているのか正確に理解し、
パワハラの有無を認定するのが難しい
というのが、
この問題の根深いところであると思います。

第2の#MeToo運動にはならない!

ハラスメントの訴えが世界中を巻き込んで大きなうねりとなったのが、
セクハラに関する#MeToo運動と言えると思います。

しかし、パワハラではこのような大きな社会的流れを生み出すことは無いと思います。
1つには先ほど書いたように、
客観的に見てパワハラか分かりづらいということが挙げられます。

「〇〇と言われた」とツイートしても文脈や場の雰囲気は分かりません
同情をもらえることはあるかもしれませんが、
それが問題提起にまでつながることは考えにくいのです。

パワハラへの反攻。集団攻撃の恐怖

パワハラは客観的に見て分かりづらいということを繰り返し述べてきましたが、
「分からないな~」で被害者側は済まされません。

ましてや、パワハラは立場の高い人が低い人へ行うことが通例であり傍から見ると弱い者いじめに見えます

メディアでもパワハラ疑惑の段階から大きく取り上げあたかも被害者側の訴えが全て事実であるかのような印象操作が行われています。
言われたことが事実であっても、それがパワハラにあたるのかは別問題です。

体操の宮川選手の件がその最たる例でしょう。
速見コーチに叱責されたり暴力を振るわれたことに関してはパワハラだとは感じていない。
しかし、塚原夫妻からの圧力はパワハラである。

是非は別にして塚原夫妻から宮川選手との会話の音声が出されましたが、
個人的な印象では速見コーチが暴力を振るったとされる映像の方がはるかに恐怖を覚えました。

しかし、本人がそれはパワハラではなく愛情によるものだと思えば、それもまた事実なのでしょう。

私が問題提起したいのは、この件は第三者委員会に客観的にパワハラの有無を調査してもらうことになっていて、
その結果も出ないうちにメディア、コメンテーターが塚原夫妻への人格攻撃を始めたことです。

ここまでメディアで叩かれれば、
もはや事実がどうであれ夫妻はパワハラの加害者となってしまいます。

そして攻撃を繰り返されることで立場的に追い込まれ、
結局はメディアが上の立場、夫妻が下の立場となりもはや第2のパワハラ劇場が始まります。

タレントも厳しい意見を言うようになってきていますが、
彼らもまた不祥事「疑惑」でも引き起こしてしまえば、新たな攻撃対象となります。

誰のために反省し責任を取るのかを忘れたくない

ネットの進歩により、顔が見えない状態でコミュニケーションを取ることができるようになりました。
便利になった反面、匿名性を利用して人を傷つけることに快感を覚える人も増えたように思います。
その理由はストレスや恨み、もしかしたら何の気なしの人もいるのかもしれません。

ネットの社会だと著名人にでも気軽にコメントができ、
あわよくば返信をしてくれることすらある時代です。

どんな立場の人にでも「自分の素性をさらさないことで」自由にものが言えるようになっています。

しかし、この時代だから考えたいことは、私的制裁は野蛮であり前時代的な発想であるということです。]

自由に意見を述べることは権利として認められていますし、守るべき権利です。反対に疑われている段階、もしくは加害者であっても個人攻撃をされるいわれはないのです。

民事や刑事、本人同士の話し合いで決着をつける制度が整っている時代に私的制裁、ましてや匿名性や社会的影響力を利用した攻撃などは許されません。

謝罪する意味、会見を開く意味は被害者への償いであり、社会に許しを請うことではないはずです。

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